そういえば

横浜→仙台へ移住したばかり。

境界

昨日Noismの「境界」という作品を見てきた。
noism.jp
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2部構成で1部は山田うんという外部の方が演出振付の「Endless Opening」、2部が金森穣演出振付の「Near Far Here」

私はバレエやダンスに詳しくもないし、コンテンポラリーダンスもNoismしか見たことがない。そしてNoismを見るといつも、いろんなメッセージが自分の中にとびこんできて「言葉のない作品なのに、なんてメッセージ性が強いんだろうか」と思っていた。時折疲れるくらいだった。
今回の作品を見て遅まきながらやっとわかった。
私が作品を見て、自分の考えや思いを投影していただけなんだな、ということ。
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「Endless Opening」は派手な色彩の衣装に肩のラインを隠すようにヒラヒラの飾りがついていて、それだけで男性と女性の性の境界がわかりにくくなる。性の多様性のことも思ったし、ひらひらと自分を飾って外にアピールしたい、その外部と自分との境界のことも考えた。あの木箱は寝台であり、ストレッチャーであり、棺であり墓標で、コロナ禍のことや生きることと死ぬことの境界を思って胸がつまった。
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私にはそう見えたのだ。
でもパンフレットに書かれた演出家の言葉はもう少し穏やかな感じだったし、SNSに流れる他の人の感想には「楽しい作品」「暖かい作品」と書かれていて驚いた。それぞれの人が自分の中にあるものを引っ張り出して自分の見たいように見るんだな、と思った。そこにも「境界」があるんだな、と。
ダンスって恐ろしいものだな。まるで仏像のように「あなたの見たいように見たらいい」とそこにあるのか、と初めて気がついた。
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「Near Far Here」の始まりはまさしく仏像で「ああ、観音様がいる」と思った。
3人の影絵は阿修羅像や千手観音像のようだった。以前に見たカルメンのシーンも思い出した。あの影絵の中で2人の愛情や生活はどんどん拗れて荒んでいった。

スクリーンに映し出された「パブリックイメージ」と自分との境界だとか、理想と現実の境界とか、近くにいるようでいて実際には触れ合うことのできない現在とか、スクリーン越しだけど触れ合っているようなつもりになっていることとか、そんなことをいろいろ考えているうちに目の前が真っ赤になって呆然とした。

舞台の上という境界の向こうのあの人に降る花びらは、客席の自分の上にも降り注ぐのか、と思ったら泣きそうになって、整理のつかない気持ちのまま早足で帰った。
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今もまだ途方に暮れている。