蜜柑の隠密
まだまだ寒いけれど、もう河津桜は咲き始めているらしい。
金さんのお目付け桜みたいに咲き誇る、これはいつかの春の千鳥ヶ淵の桜だ。
コロナの前までは春になると、朝、出社前に千鳥ヶ淵に立ち寄ったりしていた。
うっとりと桜に見とれながら、それでいて、私は目の端に、お堀にぷかぷかと浮かぶみかんの皮もしっかりと捉えているのだ。
それは毎年あった。
人は。
いや、「人は」なんて大仰に言うようなことではないだろうが、しかし人は。
人には、岸辺でみかんを食べ、その皮を投げ捨てるという習性があるように思われる。
鮮やかなオレンジ色が目につくたびにいつも思う。
人はそんなにもあちこちでみかんを食べるものなのか。いつもバッグにみかんを忍ばせているものなのか。そして、みかんの皮を投げ捨てたくなるものなのか。
驚いたことに、それは中国でも同じだった。
こんな様子を見たら、国粋主義者は眉を吊り上げて言うかもしれない。「日本に落ちているみかんの皮も全部中国人がポイ捨てしたに違いない!」
いいえ、それは違う、と私は断言できる。
中国人旅行者が大挙して押し寄せるよりずっと前から、子供の頃からずっと私は打ち捨てられたみかんの皮を見つめてきた。
この日本のあちこちに、常にバッグにみかんを忍ばせ、隙あらばみかんを食べ、皮をぽいと投げ捨てる忍びの者がいるのだ。
投げ捨てられたみかんの皮はいくつも見てきた私だが、捨てる決定的瞬間は見たことがない。それほどあの者たちは人に気づかれることなくさっとみかんの皮を捨てて去るのだ。
食堂で煮魚定食を食べてさえ、手持ちのみかんを取りだしてさっと食後のデザートにして立ち去る者が。
残されたみかんの皮を見つめ、またしても決定的瞬間を見ることができなかったか…と悔しさを噛み締めつつ、刺身定食を食べた。
我が家は小さな小川沿い。いつも雨音のように川の流れる音がする。
今朝、自転車置き場前にみかんの皮がおちているのを見つけた。
おのれ、ついにここまで隠密が。
既にあたりに人影はない。なんという完全犯罪なのだ、みかんの皮を捨て去る者め。
別に怒ってはいない。ただいつか決定的瞬間を見てみたい、それだけだ。
2018.02.01「曲がり角ごとの驚き・23 岸辺のアルバム」改訂