ミニマリストになれなくて
ちょっと語呂が「アンダルシアに憧れて」ぽいけども。
1996年の1月に買った福武文庫、吉本ばななの「キッチン」。
何度も何度も読んで、日焼けもしていたしシミだらけにもなっていた。
そして5,6年前、自分に断捨離ブームが来た時に処分したのだ。「TSUGUMI」も「ハチ公の最後の恋人」も「N.P」も。
絶版になることは当分ないだろうし、次は電子書籍で買ってもいいな、とも思っていた。処分するあの時は。
でも、再び読み返したくなった今、電子書籍で買って初めて気づいたのだ。
「あの時と同じあとがきや、あの時と同じ解説は読めない」ということに。
小説の内容もさることながら、あとがきもすごく印象に残っていたり、「ああ、この人が解説を書いていたのか」なんて思ったり、交友関係が見えたり、あとがきも解説も含めて「その本」だ。
電子書籍だと解説やあとがきはカットされていることも多い。
どうしてもどうしても、あの時の解説が読みたくて、結局古本で福武文庫の「キッチン」を購入した。私が持っていたのと同じように日に焼けて、シミだらけになった文庫本だった。でもどうしてもこれじゃなければダメだった。
こんな風に「もうさすがに処分しよう」と捨てたのに、やっぱりまた買い戻してしまったものがいくつもある。
買い戻したくても、もう手に入らないものもある。
これだけインターネットが発達し、情報があちこちにあって、オークションなどでみんなが品物をやりとりしている時代でも、「時がすぎれば手に入らないもの」はあるのだ。
人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。
(中略)
大事なことやら、しょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思ってもなんとかそこを乗り越えていけるんよ
村上春樹 「アフターダーク」
年を重ねて、昔のことを思い出すことが増えている。
「あれはなんだったっけ」「あの景色を見たのはどこだったっけ」「田辺聖子が旅先で赤い瑪瑙の盃を買う女の子のことを書いた小説はなんだったっけ」「あの頃PARCOで配られていたフリーペーパーGOMESが読みたい!」「JAFの会報誌に連載されていた佐野洋子のエッセイが読みたい」と、必死で探したり、何日も何日も悶々としたりする。
そうしてついには「今までの人生で持っていたものを本当は何一つ捨てたらいけなかったのではないか」とさえ思ってしまうのだ。
昔持っていた本、マンガ、写真、雑誌やチラシ、チケット、公演プログラムやCD…。
手に入らなければ入らないほど欲しくなったり、懐かしさが募ったりもする。
だからやっぱり私はミニマリストにはなれないのだ。