そういえば

横浜→仙台へ移住したばかり。

11年目

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「闘牛場での騒ぎ、見てきたのかい?」ぼくはたずねた。
「ああ、みんなでいってたんだよ」
「だれか負傷した者はいたか?」
「一頭の雄牛がアリーナの群衆に突っ込んできてね、跳ね飛ばされたやつが六人から八人はいたな」
              アーネスト・ヘミングウェイ日はまた昇る


毎年夏になると国際ニュースで流れるスペインの牛追い祭りがいつも不思議だった。スペイン人はなぜ牛に追われて走りたがるのか。そうして命を落としたりするのか、と思っていた。
映像では、足がもつれて石畳を転がる人、角に突かれて倒れる人も出てきたし、店の看板にぶら下がってなんとかやりすごす人も出てきた。


あの人達はきっと、あとで飲み屋で興奮気味に語るんだろう。頬を紅潮させて早口で。
「いやあ、あの時はマジで死んだと思ったね!」
「本当に危なかった。もう少し遅かったら今頃あの世だったよ」
「あの時は本当に走馬灯と言うか、一瞬の間に今までの人生が脳裏をよぎったね」


人は危険な目にあったとき、そしてそこをうまく超えられた時、生きていることを心底実感して、そして興奮気味に語りたくなったりするのだろう。


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震災から3年をすぎた頃くらいだったか、自分も含めて、たくさんの人達があの震災の日の出来事を語りだすことが増えたような気がした。
みんなちょっと興奮気味の熱っぽい口調だ。
なんだか牛追い祭りみたいだな、と少し思った。


私達はあの日首都圏にいて、そりゃあ驚いたし怖かったけれど、津波に襲われたり家をなくしたりしたわけではない。計画停電や物流の問題はあったけれど、比較的簡単に「日常」に戻れたから、あの震災を「興奮気味に語る非日常」にできたんだな、と思う。


それでいて、震災後すぐは「もうだめだ、もう終わりだ、日本はどうなるんだ」とひどく落ち込んでいた。

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NHK連続テレビ小説あまちゃん」の中でも、被災地の人間のほうが元気でいて、東京にいる鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)の方が「被災地の皆さんに申し訳ない」「不謹慎ではないのか」とクヨクヨするシーンがあったけど、正にみんなあんな状態だったと思う。


私も仙台の友人に「生きてるから大丈夫よ!生きていればなんとかなるわよ」と励まされたりしていた。だけど彼女は、あの後、震災のことはあまり語らなかった。

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2016年8月。仙台市 荒浜地区


20代の頃、夏に青春18きっぷを使ってのんびりと仙台まで行った。着いたのは夕方で、友人が車で荒浜の海に連れて行ってくれた。
海へ続く雑木林を抜けて、夕方のおだやかな海を見ながら、いろんなことをポツポツと話した。


震災から5年たって、仙台を訪れた時に友人が「あの時の海、覚えてる?あそこ津波がひどかったんだ。行ってみる?」とまた車を出してくれた。
正直「被災地」の姿を見るのが怖い気持ちもあった。


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海の方へ向かっただけで、もう何も言えなくなってしまった。
何もなかったのだ。


一生懸命20代の頃の記憶をたどる。
小学校の脇を通って、家がたくさんあって、この先の道は少しカーブしていて、駐車場からちょっと歩いて。


「松の木の葉っぱが上しか残っていないでしょう。あそこまで波がきたんだよ」と友人は言った。
新しくできた大きな堤防に座って、あの時と同じ夕方の海、あの時と違う景色を見て、二人で黙って泣いた。


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あの震災から11年たって、少しずつ忘れたり、忘れたかったり、コロナや戦争でそれどころじゃなかったり、やっと語れるようになった人がいたり、まだ立ち直れない人もいる。


すこし遠くなったからやっと語れることもある。
今だから、あの時よりは落ち着いて振り返ることができたりもする。
遠くの戦争だからシニカルに言えることもあり、まだ我が身に降り掛かってないから熱っぽく勇ましく言えることもある。


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もういつもどおりの春は来ないと、弱々しく塞ぎ込んでいたあの時、木蓮の花が咲いたのを見て「こんな時でも咲いてくれるのか」としみじみ泣いた、あの気持ちをずっと覚えていたい。
牛に追われなくても「生きている」って実感できるように。