そういえば

横浜→仙台へ移住したばかり。

江戸糸あやつり人形結城座 「変身」

お正月にNHK江戸糸あやつり人形結城座という劇団が紹介されていて、興味が湧いて調べたら、ちょうどもうすぐカフカの「変身」のチケットが発売されるところだった。


「変身」の冒頭の文章は諳んじているくらいなのに、その後の描写が気持ち悪すぎてどうにもその先を読み進めることができないまま年をとった。だからその先のストーリーも知らなかった。


虫があまり得意じゃないからこそ、文章で読むとあまりにリアルに想像してしまう。映画なんてきっと絶対無理だ。半年は眠れなくなるだろう。でも人形劇なら、もしかしたらちゃんと見ることができるのではないか。
という思いもあって、チケットを買った。

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あの小説の中で「グレゴール・ザムザがある朝目覚めたら巨大な毒虫になっていた」というのは精神的な問題で、本人にだけそう見えたり、思えたりするのか、あるいは何かの隠喩なのかと思っていたら、本当の本当に虫になっていた。家族から見ても他人から見ても正真正銘の虫だ。
そして言葉も通じない。人間としてできていたことはできなくなり、食べ物も生活スタイルも変わる。
そうだったのか…。精神的なファンタジーじゃなくて現実的に虫か。

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トンボほど自由でもない虫


虫と共存せざるを得ない家族を見つめるうちにだんだんと気づいてくる。
ああ、この物語はある日突然体に障害を持ってしまった人や、引きこもりになってしまった人、要介護になってしまった人とその家族の物語だったのか、と。


始めは献身的だった家族もだんだんと、「あの虫のせいで我々は不当に苦しめられているのだ」「あれさえいなければ」という精神状態になっていく。
精神的に追い詰められた父親は、かつて息子であった「虫」を力いっぱい杖でなぐり、力いっぱいりんごを投げつける。
そして傍観者である我々にも「自分たちのために一緒にりんごを投げてくれ」と要求する。

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2018年8月 高崎 達磨寺


ただただ舞台上を見つめているだけの傍観者の私は、声に出さないまでも「虫」を気持ちが悪い、なんだか怖い、おお嫌だ、嫌だと避けて見ないようにしていて、そしてついには虫に向かって笑いながらリンゴを投げつける加害者になるのだな。
それは「虫」という形をとっているけれど、障碍者や引きこもりや要介護老人に、常日頃向けている視線なのだ。どんなに体のいい言い訳をしようとも。
なんて不都合な真実を見せつけてくるんだろう、この芝居は。


虫は家族の会話はきちんと聞き取れているから自分が疎まれて憎まれていることはもう十分知っている。そして、黙って死ぬ。
虫が死んだ後の家族は、一応自分たちの手で彼を葬ろうとはするけれども、開放された喜びでピクニックに出かけ、今後の人生を夢見て家族みんなで高らかに笑う。


ネット上であれこれ解説を見たらラストが不条理のなんのと書かれているが、不条理というよりは、ある意味わかりやすいなあ、と思う。
自分たちを苦しめる重石がやっと消えてくれたんだもんな。
家族だから家族の死を悲しむ、なんてことばかりじゃないよな。家族だからこそ、「やっと死んでくれた」「やっと開放された」ってことがあるよな。

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2018年 千鳥ヶ淵


帰り道、電車の窓から景色を眺めながらずっと「ああ、見るんじゃなかったなあ」と思っていた。
やっと春めいて暖かくなって、気持ちもウキウキしそうなのに。
桜も咲いたのに、みんな嬉しそうに桜の下で写真を撮ったりしているのに、こんな暗い気持ちになってしまうなんて。


物語の中の家族のように、自分の胸のうちにも虫が棲み着いてしまい、「虫のせいでこんな暗い気持ちにさせられている」「見たくない真実を見せつけられている」と考え込んでしまう。
綺麗事や体のいい言い訳ではごまかせない自分の心の中のズルさだとか汚さだとか、いつか自分が虫になる怖さだとか。


春なのに、延々と悶々とぐるぐると考え込んで、wikiカフカについても、この小説についても調べた。
カフカにとってこの小説は喜劇らしく、彼は自分の小説を爆笑しながら朗読したのだそうだ。あいつ、サイコパスだな。
自分が何を書いたかわかっているのか!と殴ってやりたい気持ちにもなった。
虫にりんごを投げつけたこの手で。