そういえば

横浜→仙台へ移住したばかり。

線引

父方の親戚が10年くらい前に倒れて開頭手術をして、それからずっと植物状態らしい。亡くなったという話は聞かないので、きっと今もそのままチューブにつながれているのだろう。時々、どうなったかな、と考える。
母はいつか忌々しげに「誰も決断できないのよ!」と言っていた。


でも誰が決断できるだろう。自分以外の人間が死ぬか生きるかについて。


学生時代にふと思ったことがある。
どうして動物のお医者さんはいるのに、昆虫のお医者さんや魚のお医者さんはいないんだろう。
治したい命と、死んでもしょうがない命の線引は、どこで誰が決めているんだろう。


2年前の今頃、ちょうど猫が子供を生む時期で、神社の境内でまだ生まれたての10センチくらいの子猫が母猫とはぐれてギャーギャー鳴いていた。
通りすがりのおばさんは「でも仕方ないわよね、どうにもできないもの」と笑顔で去っていった。


コロナが一旦落ち着いて在宅勤務が解除になっていたあの頃、通勤途中の私も「どうするか、会社を休んで引き取るか、でもこの先も育てられるのか」とぐるぐる悩んだ挙げ句、見捨てて会社に行った。

去年うちの下で鳴いていた猫は、近所のお姉さんが保護してくれた。


あれからしばらく怖くて神社に近づけなかった。
子猫が死んでいたら?
しばらくずっと憂鬱だった。猫好きの友人や同僚は「ああ…」と深い溜め息をつき、「でも、母猫が迎えに来ているかもしれないし」「在宅勤務ならまだどうにかできたけど、どうしようもないもんね」と言った。
同じことを何度も自分に言い聞かせた。



今日、高尾山へ行ったら6号路の沢で子鹿が鳴いていた。
あらあら、お散歩したら遠くまで来ちゃったのね、と通り過ぎたが、あとでTwitterで見たら、なんとか道に上がったものの、迷子のまま人間たちに囲まれ、母鹿も迎えに来れない状況だったらしい。
時間が経ってもそのままだったので、登山者の方が市役所に連絡したけど、保護はできないみたいだ。


あの子鹿は無事に母のもとへ帰れただろうか。
野生の生き物だから手出しできないのはわかる。


でも、どうしても助けたい命、植物状態になっても生かしておきたい命と、「仕方がない命」の線引をずっと考えてしまう。
自分が見捨てたあの子猫のことも。


頭の中に中島みゆきの「命のリレー」がずっとぐるぐると流れている。