そういえば

横浜→仙台へ移住したばかり。

部分と全体

父親が一時期写真に凝っていて、週末になると洗面所を暗室にして真っ赤な灯りの下で現像などしていた。
そうして出てくる写真はと言えば、極端に何か一つに寄った写真で「これはいったいなんなの?」「どうしていつも全体像のわからない写真を撮るの?」と家族には不評だった。

私もいつか似たようなの撮ってた。


ブリヂストン美術館がアーティゾン美術館に変わってから、完全予約制になったこともあり、なかなか行けずにいたが、ついに行ってきた。お目当てはザオ・ウーキーの絵だ。
初めてあの絵を見たのは震災の後だったから、津波の絵に見えて立ち尽くした。



今は津波に見えるわけじゃないけれど、大きな波に呑まれそうな小さな希望だとか人々の暮らしだとか、海辺の街を見下ろしながら走った夜道なんかを思い出す。音楽でも、絵でも、舞台でも映画でもそうなのだけれど、本当に好きなものに出会うと、心の中の噴水がじゃばじゃばと溢れ出すような感じがする。なんだかどんどんひたひたになっていって水が溢れるみたいに涙がでてくるのだ。


久々にあの絵を見たいな、と思って出かけたアーティゾン美術館。
現在、二つの企画展が開催されていて、ザオ・ウーキーの絵は「越境から生まれるアート」の方だ。


一つの企画展の値段で両方見れるのでなければ、ジャム・セッションの方は見なかったし、まずはエレベーターで6階に運ばれて、6階がジャム・セッション、5階がザオ・ウーキー、という構成じゃなければ、やっぱり見ていなかったと思う。
まるで運命みたいだなあ、と思いながら見た「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄鈴木理策」、素晴らしかった。こんな世界があったのか、と思った。

ネットで拾ってきた柴田さんの写真
これも。


お!法面大好きおじさん!いいね!
と気楽に思ったが、見ているとだんだん、この人すごいな、と惹き込まれていく。
ただ法面を撮っているだけじゃなくて、それが撮り方や切り取り方で不思議な抽象画みたいに見えてくる。
写真のタイトルがシンプルに地名なのもすごくいい。


ドライブの最中、どこでも見るような景色だ。
時には渋滞中に、時には眠くなりながら、ちょっとうんざりしながら見てきたものたち。自分が風景写真を撮っていたら「ああ、あの法面ちょっと邪魔だな、入れたくないな」って思うような景色が、着目の仕方や光の加減で「自然の中にある異質さ」「自然の中にある無機物の不思議な美しさ」みたいに見える。



秩父ダム湖かなにかに浮かぶブイの、この写真すごく好きだ。
ダムサイトも良かった。夜の高速のパーキングの写真も良かった。ホッパーの絵みたいな孤独さがあった。

カタログより


もしかして父はこういう写真が撮りたかったのかなあ、と父の「訳のわからない写真」をちょっと思い出した。
昨日、この展覧会に行けてよかった。
法面にフォーカスした写真から、なんだか新しい世界が広がった気持ち。