そういえば

横浜→仙台へ移住したばかり。

今は昔

古代エジプトの遺跡だのメソポタミアの遺跡だの、そんなものにも「最近の若者は」といった愚痴が書かれているという話を時々聞く。
そう思うと、人はいつの時代でも常に過去と現在を比較し、そして積み重ねてきた日々を憂えたり、感銘を受けたりしているものだなあ、としみじみする。
私は何につけ、しみじみとするタイプなので。

最近の猫ときたら、抱き合って暖を取りがち。


さて、9月末で退職し、今年2度目の無職だ。
それをいいことに山寺へ行ってきた。山寺は、松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句を詠んだ立石寺のある場所だ。仙台から仙山線という在来線で小一時間。往復の割引きっぷなどもあり、手軽に行くことのできる観光地。


かねてより、仙台の友人や同僚から「山形は近い」「通勤している人もたくさんいる」と聞いていたので割りと気軽な気持ちだったが電車に乗って驚いた。
単線じゃないか!


そうか、通勤電車なのだから複線、複々線である、などという考えは「当たり前」ではないのだな、と思い知らされた。ちょっと仙台駅を離れた途端、電車は急勾配を登り、生い茂る草をかき分けて走るのだ。そして停車駅で上り下りの待ち合わせを行いながら電車は進む。
仙山線という名ではあるが、仙台から山形まで行く電車は1時間1本だ。あとの2本は愛子(あやし)止まりだ。
それも納得の風景が車窓に広がる。



沢、山、沢、山、の繰り返しだ。初めは「なんと美しい渓谷!」などと思っていたが、あまりに繰り返されるので、景観のインフレ状態に陥る。まあ、地理的に山があれば沢があるよな、と無感動になってくる。恐ろしい。
そして奥羽山脈を貫く長いトンネルを抜けると天気が違うのだ。仙台では曇り空だったが、山形は晴れている。奥羽山脈の威力を思い知る。



山寺駅に近づくと見えてくる「日本一の芋煮」の大鍋。ちなみにこの鍋は「鍋太郎」という名だ。そして1992年から25年間使われた2代目鍋太郎が観光アピールのため再雇用され、山寺の河原に展示されているらしい。鍋でさえ再雇用されているのに、無職の身のわたくし。


こんなものが展示されているくらいなので、当然駅から山寺登山口まで立ち並ぶお店にも「芋煮定食」の文字が躍り、店先には「令和鍋合戦 鍋将軍の称号は誰の手に!」などという謎ポスターも展示されている。そんなにも芋煮推しか。



そんなことを考えながら、立石寺1000段の石段を登り始めるが、今度は風情がインフレを起こす。ともかく風情がありすぎだ。芭蕉の句碑が有名なおかげで、俳人の聖地なのか、句碑がいくつもあり、また昔からたくさんの人々が祈りを捧げてきた石塔や石碑が随所にある。



風雨に侵食された凝塊岩はガウディ建築かジブリかといった風情で、それはきっと昔の人の心をも強く捉えたのだろう、あの穴に納骨されたり、あの穴の中で即身仏になられた方もいるらしい。
昔の人もよくもこんな場所にお寺を作ったものだが、命をかけても作りたくなるほど霊験あらたかな感じがしたのだろうな、この岩の姿に。



こんな天空の寺といった風情には、さぞかし芭蕉も感銘を受けたことだろう。そしてきっとやっぱり「よくもこんなところに」と思っただろう。



立石寺の入り口には芭蕉曽良銅像があった。横の碑文によると芭蕉像はでん六豆の社長のお父さんが建てたらしく、息子が曽良の像を付け足したんだそうだ。さすが地元企業。


五大堂からの景色


仙台に来てから、あちこちに密かに「おくのほそ道のゆかりの地」という表記を見かけて気になっていた「おくのほそ道」、帰宅後、ようやく読むことにした。
やはりこういう古典は今読むと、学生時代に習った時とは全く違う感銘を受ける。


芭蕉西行法師などに憧れてみちのくの旅に出て、「ああ、本で読んだのと同じだ、昔の人もこれを見ていたのか」としみじみしている。その様子を読んで、私も「ああ、芭蕉も先人を振り返って感銘を受けていたのか」とか「万葉集の時代から既にこの辺りも歌に詠まれていたのか」としみじみする。
人間は、そうやって積み重ねてきた歴史に感銘を受けていくものなのね。



下山したら、出口のところに山口素堂の歌碑があった。
「ほろびゆくもの美しき遠き世の供養の文字乃苔にやつるも」
芭蕉と親交の深かったという山口素堂。いい歌だな。そしてやっぱり、この人も滅びゆく過去のものに、遠い時代のものに思いをはせていたのだな。


山口素堂も読みたくなるし、西行についても調べたくなる。
今は昔の人が、今と同じように思っていたこと。