生きてる野菜
疲れた、淋しいとか言いながら日々を過ごして春が来た。
もう近所の桜が綺麗に咲いている。

さて、去年の11月から始めたシェア畑。
本当に生えるのか、生えたところで食べられるのか、と不安は尽きなかったが、冬の間何度もほうれん草、ミニ大根、リーフレタスの収穫ができた。
収穫した野菜を弟たちにあげたり、サラダにして友達の家に持っていったりした。


「味が濃いね」とか「美味しいね」と言われて生産者の気分を味わったり、「知ってる人の作った野菜食べるの初めて」なんて言う父を「ふふん、都会の人ねえ」なんて思ってみたり。
「えらいね、すごいね」とも言われるけど、実際それほど大変なことを私は何もしなかった。週に1回様子を見に行ったり、寒さ対策をするくらいだ。あとは天気と土が育ててくれたのだ。仙台の人たちが言っていた「植えときゃ生えるよ」っていうのはこのことか、としみじみした。
種まきが遅かったので、ほうれん草はそれほど大きくならず、また、根が張りすぎて間引きもできず、という状況で正直「この雑草みたいな草、食べられるのか…?」と思ったが、食べてびっくり、甘くておいしい。
リーフレタスも「この野菜、生きてる!野生のレタス」と驚いた。
そんな驚きは仙台にいたとき以来だ。
返す返すも仙台の野菜はすごかった。
槍のような長ネギ、わさわさのクレソン、50円で売られるほうれん草、鬼の金棒みたいなズッキーニ。どれも味が濃くて、美味しくて強くて、冷蔵庫に入れたまま1週間忘れたところでビクともしなかった。
あの野菜はもう食べられないんだろうな、と関東に戻って来て、値段の高ーーーーい野菜をスーパーで買いながら思っていた。半分死んだような野菜しか食べられないんだろうな、と。
でも畑で自分で作ったら、もう一度あの衝撃を味わえるのだなあ、私が育てても、美味しく生きてる野菜が育つのだなあ、とじわじわ驚き、感動し、嬉しく、そして自信になった。
冬の野菜はもう終わり。そら豆以外は先週全部抜いて、今日は土をきれいにしてきた。残った根や石や雑草を取り除き、眠っていた幼虫たちにもサヨナラだ。
なんの罪もなく、ぐっすりと眠っていた虫のこどもを追い払ってまで、私は自分の食べる物を確保しようとしている。
なんと業の深いことよ。
そして種を撒き、苗を植え、生きてる野菜を食べて生きていくのだ。
なんだか少し、強くなった気がする。
またいちから
2月末に引っ越しをして、それから怒涛の日々であった。
リフォーム代に数百万、電気工事とエアコン設置に数十万、引っ越しに十万ちょっと、ガス工事に数万、そして家具家財…と毎日飛ぶようにお金が出ていき、手がガサガサになるほど段ボールを開梱し、どうするああすると考え続け、意地で作業し、やっと!やっと少し!少しだけ!落ち着いて来た。

これは2022年7月に仙台に引っ越した翌日の晩ごはん。
あのときは引っ越しの翌日からすぐ自炊できたのに、今回は4日ほどずっと惣菜やお弁当を買ってくるような生活だった。
不思議なもので、毎日買ってきたものを食べるというのがどうにも性に合わなくて、なんだか疲れてしまう。ダメな生活をしているようで変に傷つく。
家がいつまでも片付かないことにも傷ついて、「3年前ならすぐ片付けて自炊できたのに、これが寄る年波ってことなの?」などと台所で呆然としていた。

しかし、「あれ?サランラップがないじゃん!」「え?みりんがない!?」となった時に私は初めて気づいたのだ。
あ、これは寄る年波でうまくいかないんじゃない、私には一人暮らしのブランクがあるんだ!ということに。
今までだったら引っ越したところで、昨日と今日は続いていて、別の家で同じことをするだけだったし、自分のラップもみりんもサラダ油もあったのだ。
1回実家というインターバルを挟み、自分のラップも油もみりんも実家で使ってしまったから、ないのだ。
私はまた一から一人暮らしを始め、自分のものを揃えないといけないのだ。

「暮らすって物要りね」と嘆くキキのように、オリーブオイルも海苔も、紅茶もマヨネーズも、全部また買い揃えるんだな。
そのことにすごくトキめくほどの若さはなくて、「ああ、そうだったな…。そうだったか…」という気持ち。
そして久々に一人で暮らす家のがらんとした感じにも少し戸惑っていた。
猫はいるものの。

2018年に「猫を飼わないか」と友人から打診されたときに「いや、チャンスがあったらと思ってたよ?嬉しいよ?でも今なの?」という戸惑いが大きかった。
「もしやこれって、子どもができたとわかった時の女子の気持ちかしら」と言ったら友人たちに笑われた。
「ついにわかった?」と。
仙台から帰ってきて、実家で父と暮らし始め、少し暮らしが馴染んだ頃、私が夕飯にうどんを用意していたにも関わらず、父が「中華屋の前を通ったらどうしても食べたくなったから俺は外で食って帰る」と連絡してきたことがある。
なんだか無性にイラッとし、「世の奥様方が離婚ポイントを貯めていくのはこういう瞬間なのでは」と同僚に話したら、「ああ!!あるあるだね」と共感された。
父は偏食でトマトやきゅうりが嫌いなので、去年の夏はトマトやきゅうりを食べられなかった。「早く一人暮らしして自分の好きなものを食べたいな」とも思ったし、日々の献立を考えるのもめんどくさいな、とも思っていた。
だがしかし、いざ一人になるとなんだか寂しいのだ。そして自分の生活を自分で整えていくことの億劫さもあるのだ。
「ああ、世の中の人が離婚や同棲解消を思いとどまるのはこういう点もあるのかしら」…と私はまた一つ学んだ。
猫と暮らし、父と暮らすことで「他の生き物と暮らす生活」を知った。
でもまたひとりだな、猫はいるけど。

最初の週は父も寂しかったのだろう、「俺、初めてウーバーイーツ頼んでみたから一緒に食べよう」と実家に呼んでくれた。
まだ1週間くらいなのに、実家はもう「別の家」みたいな顔をしていた。
きっと父にとってももう、私の家は「自分の知らない家」なんだろう。
明日はふりかけとハムと梅干しを買おう。
少しずつ、少しずつ、またいちからやっていこう。猫と一緒に。
サンセット・サンライズ

「サンセット・サンライズ」という映画を見てきた。
舞台が気仙沼だというので、これは見なければ!と思ったのだ。
関東に帰ってくる本当に直前に友人に気仙沼に連れて行ってもらった。

あまりにいい所で、気仙沼最高だね!特に大島が最高!とはしゃいでいたら、その翌週も気仙沼に連れて行ってもらった。
あれからすっかり気仙沼ファンになってしまった。

映画の冒頭、井上真央ちゃんの運転する車が気仙沼大橋を渡るシーンで、もうぐっと来た。
あの橋を、私も渡ったな。橋を歩いたりもしたな。
映画の中で、東京から気仙沼に移住してきた菅田将暉が食べ物の美味しさや新鮮さに逐一驚いて「ここ天国っすか?」と大騒ぎする。
あー、その驚き、わかるなあ、私も同じことを思って逐一大騒ぎしていたな、と思う。


あれこれくれる親切、ちょっとおせっかいだったり、なんでも知りたがったりする人柄、人間関係や移動手段、選択肢が少ないことの閉塞感。
それも知っている。
正直、母の病気や死は、関東に帰るための言い訳でもあった。帰りたいと思っていた。帰ってきてホッとした。
同時に、2年間、まわりを引っ掻き回して結局逃げ帰ったのか、という罪悪感も感じた。何をやっているんだか、という自嘲もあった。

なので、映画の中、煮詰まった人間関係が爆発するシーンで「また美味しいもの食べにおいでよ」というセリフに、映画の流れも何も関係なく、個人的に感情を揺さぶられて泣いてしまった。
そっか、また、ただの観光客に戻ってふらっと美味しいもの食べに行ってもいいのか、と、この2年に少しだけ納得できるような気持ちになった。

「気仙沼が舞台のサンセット・サンライズ見てきたよ、懐かしい風景がいっぱい出てきたよ」と仙台の友人たちにLINEしたら「母が見に行ったけど、字幕つけなきゃ東京の人は言葉がわかんないんじゃないかって心配してた」と返事が来た。
…そう言えば、日比谷の映画館でケタケタ笑ってたの私くらいだったかも。
そうか、この2年で私はあの言葉を聞き取れるようになっていたんだな。そして「ああ、懐かしい言葉だ」と思えるようになっていたんだな。
仙台にいた頃は「標準語が聞きたい」とちょっと疲れた心で思っていたのにな。

サンセット・サンライズ
映画は割ときれいに終わっていたけれど、人間、生きていたらきれいに片付いて美しく終わっていく物語ばかりじゃなくて、みっともないこともどうしようもないこともたくさんあるよな。
池脇千鶴はなんて素晴らしい女優だろうかと思った。
三宅健くん、あーこういう兄ちゃんいるなあ…と説得力半端なかった。
中村雅俊も良かった。
また仙台に行って、そして気仙沼に連れて行ってもらいたい。
美味しいもの食べに。
ただ春を待つ
しんみりしていた年末から1ヶ月も経ってしまった。1月が終わってしまう。
昨年夏に、仙台から関東に帰ってきたが、帰ってきてすぐの頃から古い団地の購入に向けて動いていた。
古い古い団地なのでお値段だって本当に安いものだが、それでも人生初の住宅ローンだし、古い家をリフォームするイメージもつかず、リフォームにいくらかかるかもわからず、私はずっと及び腰であった。
友人や父や弟にどんどこどんどこ背中を押され、不動産屋さんにも助けてもらってなんとかかんとかローンを組むことができ、今月からリフォームが始まって、来月の引っ越しも決まった。
本当に本当に長い道のりだった。

世の中の人は皆、こんな大変な思いをして家を買っていたのか、これが当たり前のことだったのか、と本当に驚いた。
住民票やら身分証明書だけならまだしも、納税証明書を出せだの給与支払証明書を会社から手に入れろだの、あれこれ言われ、ハンコだってどれだけ押したことか、手書き書類をどれほど書かされたことか。確認のメールや電話も何度したことか。
銀行窓口に行くのなんて何年ぶりのことか。
更には家が購入できたら次はリフォームだ。
壁紙の色は?玄関の床の色は?エアコンはどこに?室外機はどこにどの向きで?洗面所はどんな感じで?
あれこれ聞かれながら、ぼんやり思っていた。
あー、SUBWAYのサンドイッチ注文みたいにあれこれ聞かれるんだなあ…。
こういうの、苦手なんだよなあ…。

団地リフォームでこれなのだから、注文住宅なんてどれだけあれやこれやと聞かれるんだろうか。
すごいな。SUBWAYでサンドイッチを上手に注文できる人がやるんだろうな。
自分の家を持つ、リフォームすると言うと、みんなが「えー楽しみだね!」「ワクワクするね!」と言ってくれるが、私にはワクワク感がゼロだった。
あれはどう、これはどうと聞かれるたびに、なんだかどんどん気持ちが沈んでいった。
賃貸だったらもうとっくに住んでたのにな、こんな面倒なことなかったのにな…と考えてしまう。
家を買ったって、結局管理費、修繕積立金、固定資産税、火災保険でコンスタントに結構なお金が出ていくし、資産価値なんてそれほどないだろうし、住宅ローン控除すら適用外だし、なんでこんなことをしているのだろうか、と何度も何度も考えた。
なぜ人はウキウキと家を買うんだろうな、そしてなぜ私はウキウキできないのだろうな。

春になったらウキウキするかしら。
引っ越しも終わって、この激動の1年がやっと落ち着いたら、浮かれるだろうか。
まあ、そんなこと言いつつ、清水ミチコのライブに行ったり、寄席に行ったりして遊びまわっているんだけども。
ふりかえることばかり多かりし
ついに12月か、と思っていたらあっという間に中旬だ。
この1年は本当に激動だったなと振り返るが、激動だったこともあってか自他を問わず、来し方を振り返ることの多い一年でもあった。
仙台での暮らしの最後には、東京から友達が遊びに来て、友達の連れ合いがかつて暮らしていた街や通っていた大学などをめぐり、もうこの世にいない彼の痕跡を辿った。

7月に実家に戻って来た。実家で暮らすのも28年ぶり。
そして帰ってきてすぐに、子供の頃に暮らしていた街に行き、通っていた小学校など見てきた。
40年経ってもそれほど変わらないのか、と驚きもしたし、あの頃の自分には薄暗く重たい街だったけれど、今見るとただ埃くさく西日の眩しい平らな街にすぎないのだな、とも思った。

帰りに偶然通りがかって、母が昔暮らした団地なども見てきた。
仕事が始まれば、長い事通い慣れた神保町や飯田橋の街を再び歩いたし、秋には、父が生まれ育った日本橋界隈を散歩したりもした。
それから、中高時代を過ごした埼玉の街に出かけ、当時のご近所の方々に母が亡くなったことをお伝えしご挨拶もしてきた。

この川で弟が泳いだとか、入学式の写真を撮った桜並木だとか、そんなことを父と語り合いながら歩いた。

また別の日には、20代の頃、過労死しそうになりながら働いていた浜松町の街の変わりように驚いてかつての同僚にLINEしたり、昔、祖母と家族でお買い物に繰り出した日本橋三越で天女像を見上げたりもした。
そして昨日は小田原に行ってきた。
子供の頃、海水浴と言えば江ノ島か小田原で、小田原の海は石の浜だから、これじゃないという気持ちでいたし、日に焼けた石が熱くて大泣きした。
石の中を波が引いていくときのじゃらじゃら言う音もなんだか怖かった。

でも今になると、石の浜のほうが風情があっていいものね。
波の引く音も素敵でいつまでも見ていられる。
浜辺でみかんを食べながら「ああ、ここだったんだ、あの時の浜は」と思っていた。
小田原城に長くいた象ももう亡くなっていた。
母の発症から昨日でちょうど1年。
1年て早いね、日が暮れるのもびっくりするほど早いね…と満ちている月を見上げつつ高速を走って帰って来た。
こうして、振り返ってばかりの1年が終わろうとしている。
かつて友達の誕生日ばかり登録していたGoogleカレンダーに、どんどん人の命日が増えていく。
人生は紛れもなく、折り返し地点をすぎているのだな、と実感している。
大地への信頼
昔のブログに書いたことがあるが、昔近所に住んでいたノボルという老人は外国に旅行に行くと、その土地の土を握るのだと言っていた。
「僕は今までいろんな外国を旅行して来ましたけど、どこに行っても、まずその土地の土を握ってみるんです。僕は農民だから土を握ればそこにどんな作物が育つかわかる。そこがどんな土地だかわかるんです」
ノボルはとっくの昔に亡くなったが、その言葉はずっと心に残っていて、仙台にいた頃も畑を見ては思い出したし、今自分で畑をやってみても思い出す。
大地に根ざした人間の言葉だ。

また、以前にきのこの食中毒の事例を表にまとめていたことがあるが、「そのへんに生えているものを食べる」人が多いことに、私は常々驚いていた。
仙台に暮らしていた頃には、周りの人々の言う「植えれば生えるよ」という言葉にも驚いていた。
つまり、人々の「大地への揺るぎない信頼」に私はずっと胸を打たれ、驚いていたのだ。
土を握ることでその土地を理解し、そのへんに生えているものを「食べ物だ」と信じることができ、植えれば生えると疑いなく思うことができる。
それはすごいことだな、と思う。
私には土を握ったところで何もわからないし、そのへんに生えているものが食べられるとも思えない。一度自分で春菊を育てたことがあるが、「これは本当に食べることができるのか」という猜疑心を拭い去ることができなかった。
そんな私がこの11月からシェア畑に申し込み、人生で初めてクワを手にした。たった2畳程度の畑を耕し畝をたてるのも結構な労力であった。

肥料を混ぜた土が発酵しなければならず、発酵にあたって熱を出すので根が傷む、とのことで、肥料を混ぜ込んでから種まきまで1週間から2週間待たなければならない。
こんな時期に今から蒔いてホントに生えるのかな、まあ、生えなくてもしょうがないや。
こんな小さな、ホコリみたいなものから本当に野菜なんか育つのかな。ま、モノは試しだろう。
猜疑心でいっぱいになりながら種をまいたが、それでもちゃんと芽が生えた。



生えるんだ…。
種をまいたらちゃんと生えるんだ…。
そして大根の芽はカイワレなのか…。
朝の畑に立ち、私はしみじみと「生えるのか」と驚いていた。
これを「当たり前」として人々は昔から農作物を育ててきたのか、となぜだか人類の歴史にまで思いを馳せるほど驚いた。
そして今度は「いやいや、生えたからといって、これが美味しく食べられるとは限らないんだ、この先様々試練があるに違いない」と私の胸には新たな猜疑心が去来する。
大地への揺るぎない信頼を持たずに生きてきたんだもの。
そのうちに、大地を心から信頼し、収穫に感謝し、神に祈るようになるだろうか。
そんな暮らしが私にもできるだろうか。
生産者に憧れて
仙台に移住した最初の春、冬があまりに長かったので、やっと春が来た!と浮かれて友達のくまちゃんを花見に誘ったら、くまちゃんは冷静に言った。
「畑の種まきがあるので行けません」
…種まき!
その言葉に驚き、また「ああ、畑って種を蒔くところから始まるのか」ということにも驚いた。苗を買うのかと思っていた。

2年目の春は、そんなくまちゃんに誘われて大河原の一目千本桜を見に行った。
「今年は種まきしなくていいの?」と聞くとくまちゃんは明るく答えた。
「今年はもう撒きました。去年は桜が早すぎたから花見に行けなかったんです。4月の一週目に種まきしないとゴールデンウィークに田植えができないから」
そういうスケジュールで動いていたのか!と、またしても驚いた。
東北では3月になっても花が咲かない。
そのことに焦れて、花を植えようとホームセンターに行ったことがあるが、まわりの人々がみんな台車に土や肥料を何袋も乗せていた。
あの光景が今でも目に焼き付いている。
「ああ、この人たちは少しでも春の気配を感じたら、すぐに畑の準備を始めるのだな。そして花などではなく、食べられるものを植えて育てるのだな」と心底感心した。
生産地ってすごいな。生産者ってすごいな。
それは東北にいる間、何度も何度も何度も思ったことだ。
みんな事もなげに言うのだ。
「植えとけば生えるよー」「うちの畑で取れたの」「じいちゃんの山で竹の子掘る?」

この、生産のプロたち…すごいな、と圧倒され続けた仙台から、生産ど素人ばかりの街、関東に帰ってきた。
ど素人ばかりの街では、農業は一つのレジャーであり、素人向けの指導付き菜園サービスもあるのだ。
その名もシェア畑。
SNSで広告を見かけ、しかもそれが家の近所だったので私はすぐに見学を申し込んだ。
ここでなら、私も生産のノウハウを教わり、少しでもあの仙台のプロたちに近づけるのではないか、と思ったのだ。
「植えとけばはえるよー」と笑う仙台の友人たちや、代々農家のおばさんたちにはきっとバカにされるだろう。
「なに、まめちゃん、そんな狭いとこに高いお金払って!!」
「都会の人ってそんなことにお金を使うの!」
とか言われるんだろうな…と怯えながら「畑始めようと思って」と伝えたところ、みんな「いいじゃん!」と応援してくれたのでホッとした。
ままごとみたいなもんだってことはわかってる。
でも、少しでも生産者気分を味わってみたい。そしてくまちゃんみたいに「畑の種まきがあるので」って言ってみたい。
そんなわけで、シェア畑、始めました。
冬が始まるこのタイミングってところが素人なのだ。
