そういえば

帰ってきたおばあさん。

胸を震わす

チョン・キョンファというヴァイオリニストが好きだ。
繊細なだけの美しい音ではなくて、大地に仁王立ちになって運命を見据えるような、戦火を越えてきたような、力強い音で心が震える。




この人のシベリウスを聞くと、戦火に焼かれたヨーロッパの石畳が見えるようだ。
ついにロシアとウクライナの戦争が始まってしまった。
もうだいぶ前からロシアとウクライナの状況はニュースで伝えられてきたのに、ずっと遠い他人事だと思っていた。
大好きなピアニスト、アレクサンダー・ガヴリリュクウクライナ人だと気がつくまで。


コロナのせいでしばらく来日していなかったけれど、来年の2月には来日の予定なのだ。楽しみで嬉しくてチケットを買っていた。
でも、どうなるのだろう。彼は無事でいるんだろうか。どんな日々をすごしているんだろうか。ご家族は?
一気にこの戦争が身近なものとして感じられて、この先が不安になる。




今更、「吉宗評判記 暴れん坊将軍」を見始めて気がついたけれど、大岡越前役の横内正の低い声が本当に素敵だ。
心地よく低く、胸のあたりで振動して響き渡る声だ。胸や背中に耳を当てて、その振動ごと味わいたいと思う。
audibleで横内正が朗読をしていた「羅生門」を聞いた。



地震や火事や飢饉で荒れ果て、羅生門は死体でいっぱいだ。その死体の山の中に、死体から髪を抜く老婆がいる。
物騒な今、物騒な昔の凄惨な話を、いい声で聞いている。


私はいつまでこうして呑気に「物騒などこか」の話を聞いていられるだろうか。


いつか見た、こまつ座の「きらめく星座」という芝居の中で、戦争中、戦地に赴く前に若者がレコード屋にやってきて、クラシック音楽を聞いてボロボロ泣くシーンがあった。
もうこの先、こうして聞くことのできない美しさを前に、泣くのだ。
もしもこの先、こうしていられなかったら?と思うと気持ちが焦る。


シベリウスラフマニノフも今、切実に胸に迫る。
戦火の中、食糧難が迫っても、私は生活を、猫を、守り抜けるだろうか。
そんな不安に胸がざわざわしてしまうから、どうかあのいい声で言ってほしい。
「大丈夫だ」って。


胸を震わせるあの声で。
いつか自由に呑気に聞いていられなくなる日が来てしまう前に。