時を重ねる
「何故本ばかり読む?」
僕は鯵の最後の一切をビールと一緒に飲みこんでから皿を片付け、傍に置いた読みかけの「感情教育」を手に取ってパラパラとページを繰った。
「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」
「生きてる作家の本は読まない?」
「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」
「何故?」
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」
村上春樹「風の歌を聴け」
先週、横浜市歴史博物館に行ってきた。
現在「美術の眼、考古の眼」という企画展が開催されていて、それに伴って、「縄文にハマる人々」という映画の上映会と監督の解説があった。
この企画展では、出土した大昔の土器と現代美術が並べて展示されている。
でもすぐにわかるのだ。どちらが大昔のものか。そして現代美術がまるで「ニセモノ」のように見えてしまうのだ。
それはきっと「積み重ねた時間」の差なのではないかと思う。
バカみたいなんだけど、時折仕事中に妄想することがある。お客様のあまりに立派な法人印を見たときなどに。
もしかして、この印鑑が1万年後に発掘されたら、未来の人は「王の印!」などと興奮してしまうんじゃないか、と。
どんなに下らないものでも、時を経るとそれだけで、なんだか価値のあるものに見えてくる。ロス五輪の時、コカコーラのおまけについてきたイーグルサムのヨーヨーさえ。あの頃流行ったペンギンズバーのおまけのコップさえ。
映画「縄文にハマる人々」の中には様々な「縄文にハマった人々」が出てきたし、みんなそれぞれいろんな解釈で縄文にハマる。
なぜなら文献がないから、発掘された土器やら土偶やらからあれこれの想像を巡らすしかないから、想像の余地があるから、発掘されたものの上に1万年以上の長い歳月が重なっているから。
いろんなところで、土偶や土器を見ながら、それらが「素晴らしい」と言われる様子を見ながら、そして自分もその力強さに圧倒されながら、時折不安になる。
これらはできたその当時も「素晴らしい」って言われてたんだろうか。
「○○さんの土器はちょっと技巧に走り過ぎだな」「あの窯ももう終わりだな、すっかり俗っぽくなっちまった」「××さんの作る土偶はちょっと色気が足りないよな」などと言われたりもしてたんじゃないだろうか。
下らないものや、「ダメだ!ダメだ!」と壊された物もあるんじゃないか。
私達は重ねた時の重さによって、「素晴らしいものだ」と勘違いしているんじゃないだろうか。
だって、ゴミ捨て場に捨てられた貝殻さえ、時を経たことによって素晴らしいものに見えてしまうではないか。時は積み重なると何もかもを美しく、意味深に見せるものだ。
東京、京橋の国立映画アーカイブで今、1990年代の日本映画特集が開催されている。
その中で河瀬直美プログラムがあって、見てきた。1993年製作の「白い月」と、1995年製作のドキュメンタリー「風の記憶 渋谷にて 1995.12.26」
「白い月」も痛々しかったが「風の記憶 渋谷にて 1995.12.26」は更に痛々しくて辛かった。きっと、「自分が生きた時代」「自分がよく知っている時代」だからなんだろう。
90年代のあの、過剰な自意識、居場所探し、SNSがない時代の承認欲求、透明感、無機質感、優しさを求める空気感。
奈良を撮っている分には美しい抒情詩のような河瀬直美が東京を撮ろうとすると、途端に「田舎から出てきて認められたがっている若い女の子」にすぎなくなるあの感じ。あの頃はそれがポップだと思われたのだろう、唐突なタメ口。
「白い月」の、田舎の地味で素朴な男女の日常に訪れる嘘っぽい非日常感。台詞の棒読みが無機質感を出すような気がしていたあの頃。
あの頃カッコよく見えたもの、「自分の時代の空気」に見えたものは今見ると痛々しく軽薄に映る。
ああ、90年代はまだ振り返るには早いな、と思った。あと100年くらい時が積み重なれば「昔のいいもの」に見えるんだろう。1万年積み重なったなら「何を言いたいかわからないが素晴らしいもの」に姿を変えるだろう。
「宇宙に通じている」とか「自然との共存」とか「人々の素朴な暮らし」とか、仰々しく語られたりもするのだろう。
死んだ人間に対しては大抵のことが許され、時に洗われて神格化されていくものだから。