そういえば

横浜→仙台へ移住したばかり。

人間失格

そら豆の季節になったのだな。
以前はそら豆の旬なんて知らなかった。知るようになったのは毎年この時期に母親から「そら豆いりませんか」のメールがくるせいだ。


10年近く前のブログにも書いていた。そしてあの時もそら豆に憂鬱になっていた。


昨日、母親からの電話に出そびれたらLINEが来た。
出たくないので電話に出れなくてこっちはラッキーだったのだが、あちらは怒り心頭だ。
「なぜ電話に出ないのですか。何か出られない理由があるのですか。そら豆が今年も届きましたのでお届けします。今から行っていいですか」


もうそれだけで気持ちが憂鬱になって返事ができずにいた。
すると「お忙しいようなので、明日にでも玄関にかけておきます」というLINEが来た。
良かった。これで会わずに済む。
「お手数をおかけします」とだけ返事をした。

高幡不動の観音様


毒親、と言う程ではないと思うが、どうにもこうにも母が苦手だ。
20代からどんどんどんどん苦手になり、30代前半はなんとか上手くやろうと泣きながら戦い、30代後半からは関わらないようにした。


母と話すと、自分がどうしようもないダメな人間だと思わされてしまうのだ。
結婚もせずにフラフラして、いい年して世間知らずで無責任で、いつまでも子供のままで、当たり前のこともできないダメ人間だと。


そして更に「いい年をして親をいたわることもできない自分はきっとダメなんだろう」「親と不仲だなんて恥ずかしいことだ」「家族を大事にできないなんて人間として欠陥があるに違いない」とじわじわ考えてしまう。


そこまでのことをたった1本の電話、たった1回のLINEで思わせてくる彼女の威力。
恐ろしい。

これくらいの威力。


それで昨夜はなかなか寝付かれず、悶々と考えてしまった。
仕事を辞めたことは絶対に言わないでおこう、明日会わずに済むにはどうしたらいいか、どうすれば彼女から開放されるのか。縁を切りたいなんてこと、思ってもいいんだろうか、そんなことを思うのは大人げないんだろうか、私が一人で考えすぎているだけなんだろうか。


考えてみれば、今までずっと「なんとかしよう、克服しよう」と頑張っては来た。
でもどうしてもどうしてもダメでいつも弁慶のごとくたくさんの矢に突き刺されて立ち尽くしてきたのだ。
もう、いいかな。もう「自分が悪い」って思わなくてもいいんじゃないかな。
たとえ人間失格だって人に言われてもいいや。


おい!とんだ、そら豆だ。来い!」
 堀木の声も顔色も変わっています。堀木は、たったいまふらふら起きてしたへ行った、かと思うとまた引返してきたのです。


高校生の頃にドはまりした太宰治の小説も、仕事が忙しくなったら「うっせえ!メソメソ言ってる間に働け!」と処分したが、そら豆のLINEがきたので、あの下りが気になってブックオフで「人間失格」を買ってきた。
帰ってきたら、玄関にそら豆がかかっていて、「ああ!会わずに済んだ!」とホッとしながら小説をパラパラとめくる。


やっぱり貧乏くさくてだらしなくて陰鬱で、どうしようもない。
でも、毎年そら豆の時期はこの小説と同じく陰鬱でどうしようもない気持ちになる。
まったくとんだそら豆だ。


もうそら豆いらない。美味しいけど。

家に帰る理由

あの3月11日の震災の日、電車が止まったので、私は会社で一晩を過ごした。
家族のある人達は夕方から続々と歩いて帰宅を始めたり、深夜やっと動き出した電車に乗って行けるところまで帰ったり、渋滞の中、何時間もかけて家族に迎えにきてもらったりしていた。


あの後、しみじみ考えたのだ。
私には帰る理由がないんだな、と。
何時間もかけて20km歩いて帰るだけの理由。どうしても帰りたいと思う理由。
それは家族とか、何かあったときにすぐにでも会いたい人。身を寄せ合いたい人。心を配る相手。

生後3ヶ月。いたいけだったあの頃。


4年前、猫を家に迎えた時、ああ、私にも帰る理由ができた、と思った。
そして怖くもなった。
もしも会社に行っている時に地震が来たらどうしようか。その時はきっと20km歩くだろう。でも道中、気が気じゃなくて泣くだろう。
まだ子猫だったこともあって、毎日一分一秒でも早く家に帰りたかったし、無事に最寄り駅まで帰ってくると毎日感謝した。「今地震が来ても、帰れる」と思って。

しっぽ!


小さかった猫たちはモリモリと食べてあっという間に大きくなった。正直戸惑うほどに大きい。よその猫よりも、下手をしたらよそのトイプードルよりも大きい。
それもそのはずだ。奴らは盗み食いを繰り返してきたのだ。

カリカリ。そしてしゃぶりつくされたちゅーる。
ライ麦パンさえも。パウチのキャットフードも。


最初は怒ったが、そのうち慣れた。そして、最終的に少し安心もした。


「私が帰ってこなければこの子達はどうなるのか。なんとしても帰らねば!」と思っていたが、彼らのこの逞しさ、食い意地、サバイバル能力と来たらどうだ。

盗み食いなんてしてないぜ、ぺろぺろ。


今朝は4時に目が覚めた。何者かが玄関でガサガサと何かを漁っている。あまりに一心不乱にガサガサバリバリ言うので様子を見に行き、目を疑った。
コロナ禍や戦争もあり、買いだめしたはいいが押し入れにしまいきれず玄関に積んであった猫餌入りのダンボールに直径10センチを超える大きな穴が空いているではないか。

お二人の共同作業により、開けられた大きな穴。


猫たちめ、二匹でこんな穴をあける共同作業をしていたのか。私が寝ている間に。
まるで、吉本ばななの小説「TSUGUMI」で病弱なつぐみが復讐のために極秘で夜な夜な掘り続けた穴のようじゃないか。

本当にそんなことが可能なのか、私にはわからなかった。しかしつぐみはやった。陽子ちゃんが気づいてしまったこと以外、すべてを思い通りにしたのだ。わからない、その緻密さにふちどられた執念のエネルギーが、どこから来て何を目指していたかさっぱりわからなかった。
                  吉本ばななTSUGUMI


その緻密さにふちどられた執念のエネルギーが、どこから来て何を目指していたか、うちの猫のことなら、私にはわかる。
食欲だ。
それも、いつものお皿に盛られたご飯じゃない、自らの手で勝ち取った「獲物」としての食事だろう。


ここまでの能力があるとは…。
もしかすると私は、またしても「どうしても家に帰らなければならない理由」を失いつつあるのかもしれないな、と思った。
私が少しくらいいなくても、まあ適当にやるだろう。

まあな。オレたちもいつまでも子供じゃないぜ。


中旬に一泊で仙台に行く予定だ。猫が来てから初めての一泊旅行なので、少し心配していたが、どうやらこれなら大丈夫そうだ。
いざとなればきっとまた盗み食いするだろう、うちの逞しい猫たちは。
やれやれ。

山笑う

4月で仕事を辞めたので、「やっと終わった」と少しホっとしたことと、雨続きのせいもあって、あまり外に出ていく気分にならなかったけど、昨日の朝、ゴミ捨てに外に出たら、「まあ!なんという新緑!世界が輝いている!」と驚いた。


それで昨日はベランダで日光浴したり読書したり、ご飯を食べたり、狭いベランダながらリゾート気分を満喫した。
ベランダの下には小さな川が流れているので、せせらぎを聞きながら。
川向こうの公園の緑が本当にキラキラで、「今がいちばんいい季節だな」と思った。

ハムと卵を挟んだ葱油餅に猫を添えて。


ああ、この一番いい季節をずっとベランダリゾートで過ごすわけにはいかない、山へ行かなければと思い立った。
山といっても、私がいくのはそんな大層な山じゃない。丹沢やら箱根やら鎌倉アルプスといった低山だ。GWだからどこも混んでいるだろう。
いつもの私だったら、なるべく人のいない地味な場所を選ぶところだ。


だけど、久々の山歩きがちょっと心細いことと、仕事を辞めて人に会わなくなったら人恋しさもあって、「人の多い山、山歩きのリハビリにちょうどいい山に行こう!」と高尾山に決めた。
人出はどんなものかとTwitterを見たところ、相当混雑しているらしい。
今日になったらこんなニュースも出ていた。


それなら混雑を避けて早朝に行こうと決めて、7:30すぎに高尾山口に着いたけれど、その時点で結構な人出だった。
普段は6号路から登って陣馬山へ向かってしまうので、正直ちゃんと高尾山を歩いたことがなかった。なので今回は1号路から登る。
舗装された道路で車も何台も登ってくるけれど、相当な急勾配だ。

緑がきれい。やっぱりいちばんいい季節だ。



今までまるで知らなかったけれど、こうしてメインルートの1号路を歩いてみてやっと気づく。高尾山ていうのはお寺を巡ることがメインの信仰の山だったんだな。そして神仏習合らしい。
www.takaopress.net

カッコいいポーズの天狗様


お寺を抜けて山頂に着いたのが午前9時。山頂はびっくりするほど混雑していた。でも早い時間だから富士山が見れて良かった。
昔聞いた話では、海水が日光で蒸発して霞んでしまうので昼近くになると富士山が見えなくなるということだった。なるほどね。

やっぱり富士山が見えるとラッキーな気持ちになるよな。


一休みしてから、4号路で下る。
舗装されていない山道で、人も少なめで静かですごく気持ちがいい。



後ろを、お父さんと歩いていた小学生くらいの男の子が、たどたどしい口調で大人びたことを言っていた。
「人が少ないと、さ。静かで、いいね。鳥の声とかさ。木漏れ日。あと風の音」


本当にそうだね。私も同じ気持ち。



さっきまでは人が多すぎてそれどころではなかったけれど、人が少なくなると、行き交う人が「こんにちは」と挨拶を交わしだす。
脇で待機して道を譲れば、小さな子供に「どうもありがとう」と言われる。
ああ、人のいる山に来て良かった。

吊り橋


この時期の山は「ありとあらゆる緑色」で溢れている。春になって、どんどん新芽が伸びて葉を広げ、生命力を爆発させる。
ああ、「山笑う」季節が来たなあ。


10年くらい前にもブログに書いていた。

春の山の草木が一斉に若芽を吹いて、明るい感じになる様子を「山笑う」と言うのだそうで、初めてこの言葉を習った高校生の時から、春になるたびに「すごい言葉だな」と、しみじみと噛み締めた。


やっぱりすごい言葉だな、「山笑う」
笑う、という言葉がぴったりなくらいに緑がどんどん湧き上がってくる。
これがいちばんいい季節。
いちばんいい季節にちょうどよく山歩きができて幸せだった。

いい女


こちらのサイトによると、いい女とは

  • 肝が据わっている
  • 華がある
  • ミステリアスなギャップがある

とのこと。それで言ったら、小池栄子一択だ。
あれはすごい。すごい、いい女だと思う。

全くもっていい女だよ。


この前、初めて「鎌倉殿の13人」を見た。
なんでだか私の中で毎回「鎌倉殿の18人」だと思ってしまう。どこで5人増えたんだ。


どうにもこうにも「決まった曜日の決まった時間を空けておかなければならない」というのが苦しくて、大河ドラマも朝の連続ドラマも月9や連載漫画もリアタイできずにいたが、いまやオンデマンドのある時代なので、少しハードルが下がった。
それでNHKプラスで「鎌倉殿の13人」を今更見て、小池栄子の目ヂカラにやられる。


すっごいなあ、小池栄子
あの目の見開き具合。どう見ても「ヤバい女」だ。
ヤバい女演じるの上手いよなあ。「パーマネント野ばら」の小池栄子も良かったもの。
男にだらしなくて、狂ってて、でもあったかい母性があって。



パーマネント野ばらで小池栄子の肝の据わり方に感銘を受けた頃、ちょうど佐藤江梨子が出ていた舞台を見る機会があって、彼女の演技力にも驚いた。佐藤江梨子も肝の据わった演技をしていた。


それでしみじみ、イエローキャブの女ってすごいな、と思った。
元々グラビアアイドルで、演技畑の人じゃないし、と実はあんまり期待していなかったのだ。でも全然違った。


グラビアアイドルだからこそ、なんだろうか。あちこち相当露出しているからかしら。
彼女たちの「見たいなら見な!」とでも言うような肝の据わり方。ある種の開き直りというか動じない感じ。
かっこ悪いところも狂ったような姿も、ぐっしゃぐしゃに泣き濡れた顔も、平気で本気で見せてくる。


すごいな。そしてカッコいい。こいつは間違いなくいい女たちだ。
男子が夢中になるのも納得だ。
どんなに狂おうが鼻血出そうがカッコ悪かろうが、そんなことではブレない部分があって、私でさえそこに母性や安心感を感じるものな。
小池栄子佐藤江梨子がママのバーがあったら通っちゃいたくなるもんな。


彼女たちの「だから何?」「それくらいどうってことない」って言うような肝っ玉母ちゃん感、見習いたい。
大好きな映画、ヘアスプレーのメイベルに通じるところある。




さてさて、今後「鎌倉殿の13人」で小池栄子はどうなっていくかしら。
どんな表情を見せてくれるかしら。どんな狂気を、どんな人間臭さを。
楽しみ。

Let's Groove

私が子供の頃はまだ、戦争がそれほど遠い記憶じゃなかったので、大人たちは事あるごとに反戦を訴え、私は小さな頃からイヤというほど原爆の話を聞き、原爆ドームの写真を見せられてきた。
写真は飽き飽きするほど見てたけど、14歳で初めて原爆ドームに行った時、絶句した。

2014年広島


写真と現実では全然違った。
川辺に吹き飛ばされた大きな石に、ぐにゃりと曲がった太い鉄筋に、爆風でズレた石垣に、やっと今まで聞いてきた話が実感として胸に迫った。

ベトナム ビンタイ市場


世界中にたくさんの人が生きていて「みんな同じ人間だ」なんてことは当たり前のように語られてきたけど、それを初めて実感できたのは大学生の時に国際交流団体で韓国に行った時だ。
行く前は韓国人にイライラしていた。時間にルーズだし、書類関係の処理も遅れがち。
「文化が違うから仕方ないけどさ、ちゃんとやってほしいよね!」と思っていた。


まだ韓流ブームも始まる前の韓国に、あの時実際に行って、韓国側のメンバーと2週間べったり一緒にいて、それで初めて私は当たり前のことを当たり前に理解した。


「あ、なんだ、みんな美味しいものが好きだし、楽しいことが好きで、痛いことは嫌い、ダメなところもある、優しいところもある、誇りもあって夢もある、同じ人間なんだ」

2016年 バルセロナ


それはまるで「水」という言葉がやっと現実の水と結びついて「これが水か!!」と理解した時のヘレン・ケラーみたいな衝撃だった。


「みんな同じ人間」だなんて本当の本当に当たり前のことなんだけど。
でも、遠くにいるから、知らない人だから、言葉が違うから、文化が違うから、簡単に「何か別のルールで生きている別の星の人」みたいに思ってしまう。
本当はみんな、楽しいことやあったかい布団が好きなだけなのに。


ここ最近、ものすごくハマって何度も見てしまう動画がある。



ロサンゼルスのダンススクールで、みんなが順番にノリノリでEarth, Wind & Fireの「Let's Groove」を踊る動画。
多分、一生懸命練習したんだろう。子供も大人もいるし、赤ちゃん連れもいて、みんなものすごく楽しそう。
みんなの楽しそうな顔や、小さな子供に気を配りながらもノリノリで踊るお母さんを見たら、人間っていいもんだな、と胸がいっぱいになって泣きそうになるくらいだ。



これを見てたら「みんな楽しいことが好きな同じ人間だ」ってことを思い出せる。そして私もいい笑顔でウキウキと踊りたくなる。幸い、我が家の下は駐車スペースで家がない。
よっしゃ、ゴールデンウィークは楽しくLet this Grooveだわ。


きっとどこか遠くで誰かが「家で一人でEarth, Wind & Fireでノリノリだなんて、あの日本人も同じ人間なんだな」と思うかもしれない。

鬼退治

来年の話をすると鬼が笑うって言うけど、来年も再来年も幸せでいたい。


節分の作法について割りと気にかかるタチだ。
最近ではあまり見ないけれど、以前住んでいた団地では節分をきちんとやる人がいて、ちゃんと玄関先に柊に刺したいわしの頭を飾っていた。



なんでもあれはいわしを焼くときにでる煙と強い臭いで邪気を追い払い、尖ったヒイラギで鬼の眼を刺すという魔除け・厄払いの意味で、いわしを食べて体の中の邪気を追い払うという理由もあるとのこと。
鬼はあのいわしの臭いと煙が苦手なんだそうだ。


そんなことはすっかり忘れていた。

仙台の水族館で見たいわしの群れ。


年を重ねるごとに魚が好きになる。そして無性に魚が食べたくなるときがある。
なんの魚がいいだろうか、今日は干物系が食べたいな、とスーパーを物色して目刺しを買ってきた。
そしてそれを焼いて初めて知ったのだ。
おお!なんという煙!そしてなんという臭い!!
我が家はコンロのグリルではなく、網で魚を焼くことにしているので尚更だ。


換気扇を最大にまわし、窓も開け放ち、玄関も半開きにした。それでも火災報知器が鳴ってしまうのではと心配になるほど立ち込める煙。そして臭い。
寝ていた猫も何事かと起き出すほどだ。


…そうだったか。目刺しを食べるのが久々すぎて忘れていた。こんなにも煙が充満し臭いが強いものか。火災報知器が鳴り響かなくて本当によかった。



なるほどなあ。これは鬼も裸足で逃げ出すわ。


今もまだ換気扇をまわしている。
そんな訳で我が家は今、鬼も寄り付かない家だ。
鬼は外、福は内。ついでに疫病も寄り付くな。
季節外れの鬼退治。

愛してるの響きだけで

愛情はいくらだって注げる。まるで日本国の水道のように、いくら出しっぱなしにしてもきっとつきない、そんな気がするものね。と何でだかふっと思ってしまったのだ。
         吉本ばななTSUGUMI


センター試験の現代文でこの小説が出題されて初めて吉本ばななを読んだ。そして試験の帰り道、駅の本屋ですぐにこの小説を買って、読みながら帰った。
あの時からずっとこの冒頭の文章が強く印象に残っている。こんな風に文章を書きたくて、何度も書き写したからまるで自分の考えのように強く強く。


あの頃は「そんなにじゃんじゃん愛情を注げる気がするなんて心が広いもんだ」と思ったけれど、年を取るにつれて、出し惜しみしなくなるというか、何にでもじゃんじゃん「好き」「愛してる」と思うようになるものね。

アダムス・ファミリーに出てきそうな狛犬。好き。


一回りも年の離れた弟たちがいる。
子供の頃、初めての葬儀で「おばあちゃんのお姉さんが天国に行ったのよ」と説明されれば「ずりーぞ!オレたちも天国行きたい!天国いく!」と叫んでいた彼らは、別の日には神妙な顔で私に言ったものだ。
「マオちゃん、そんなんじゃのらおとなになっちゃうぞ。野良猫みたいに誰からも可愛がられていない大人のこと、のらおとなって言うんだぞ」


もう少し大きくなると車の中でスピッツのチェリーを熱唱しながら「愛してるの響きだけで強くなれるんだって!楽だよなあ!」と仰っていた。
ふん、バカめ。もう少ししたらその「愛してる」がなかなか言えないようになるんじゃないのかね、と姉は思っていた。




そんな彼らも結婚したり、一人はその後離婚したりもしたから、「愛してる」に苦労したりもしただろう。姉は相変わらずのらおとなのままだ。



猫を飼い始めてから、「好き」「可愛い」「愛してる」を毎日500回くらい猫に言っている。気持ち悪いと思われるかもしれないが、毎日驚きの可愛さだ。正に日本国の水道の如く、汲めども尽きぬ勢いで愛情をどんどん惜しみなく注げる。
うちの猫は「愛とメシはそこにあって当然のもの」だと思っていることだろう。贅沢な猫だよ。



そして、ある日気づいた事がある。猫もまた私を深く愛しているのだ。懐いているとか慣れているのではなく、彼らは物言わずとも私を愛してくれている。
夜、電気を消せば側に駆け寄って来て添い寝をしてくれる。
「オレがいないと眠れないんだろ」とばかりに。そして、苦しいほど体を密着させてくる。愛だなあ。
PCやスマホばかり見てると、「オレを見ろ」と腕にしがみついてきたり、膝に飛び乗ってきたりする。なんだ、なんだ、可愛いヤツめ。


相手は猫だけれども、素直に惜しみなく与えたり、与えられたりするこの愛情が随分と自分を救ってくれ、自信をくれるものだ。
人間相手だとこれだけ素直でいることが難しくなるんだよなあ。それは言葉があるせいかしら。


猫を飼い始めた時、職場の先輩に言われた。
「今よりもっと強くなれるよ」
その時は「守らなければならない存在ができるから強くなるってことだろうか」と思った。


今、強くなっているのかどうかはわからないけれど、もしも強くなっているのだとしたら、それは猫と「愛してる」を惜しみなく注ぎ合っているせいだろう。
「愛してる」の響きだけで、きっと強くなってしまってるんだろう。