そういえば

横浜→仙台へ移住したばかり。

愛してるの響きだけで

愛情はいくらだって注げる。まるで日本国の水道のように、いくら出しっぱなしにしてもきっとつきない、そんな気がするものね。と何でだかふっと思ってしまったのだ。
         吉本ばななTSUGUMI


センター試験の現代文でこの小説が出題されて初めて吉本ばななを読んだ。そして試験の帰り道、駅の本屋ですぐにこの小説を買って、読みながら帰った。
あの時からずっとこの冒頭の文章が強く印象に残っている。こんな風に文章を書きたくて、何度も書き写したからまるで自分の考えのように強く強く。


あの頃は「そんなにじゃんじゃん愛情を注げる気がするなんて心が広いもんだ」と思ったけれど、年を取るにつれて、出し惜しみしなくなるというか、何にでもじゃんじゃん「好き」「愛してる」と思うようになるものね。

アダムス・ファミリーに出てきそうな狛犬。好き。


一回りも年の離れた弟たちがいる。
子供の頃、初めての葬儀で「おばあちゃんのお姉さんが天国に行ったのよ」と説明されれば「ずりーぞ!オレたちも天国行きたい!天国いく!」と叫んでいた彼らは、別の日には神妙な顔で私に言ったものだ。
「マオちゃん、そんなんじゃのらおとなになっちゃうぞ。野良猫みたいに誰からも可愛がられていない大人のこと、のらおとなって言うんだぞ」


もう少し大きくなると車の中でスピッツのチェリーを熱唱しながら「愛してるの響きだけで強くなれるんだって!楽だよなあ!」と仰っていた。
ふん、バカめ。もう少ししたらその「愛してる」がなかなか言えないようになるんじゃないのかね、と姉は思っていた。




そんな彼らも結婚したり、一人はその後離婚したりもしたから、「愛してる」に苦労したりもしただろう。姉は相変わらずのらおとなのままだ。



猫を飼い始めてから、「好き」「可愛い」「愛してる」を毎日500回くらい猫に言っている。気持ち悪いと思われるかもしれないが、毎日驚きの可愛さだ。正に日本国の水道の如く、汲めども尽きぬ勢いで愛情をどんどん惜しみなく注げる。
うちの猫は「愛とメシはそこにあって当然のもの」だと思っていることだろう。贅沢な猫だよ。



そして、ある日気づいた事がある。猫もまた私を深く愛しているのだ。懐いているとか慣れているのではなく、彼らは物言わずとも私を愛してくれている。
夜、電気を消せば側に駆け寄って来て添い寝をしてくれる。
「オレがいないと眠れないんだろ」とばかりに。そして、苦しいほど体を密着させてくる。愛だなあ。
PCやスマホばかり見てると、「オレを見ろ」と腕にしがみついてきたり、膝に飛び乗ってきたりする。なんだ、なんだ、可愛いヤツめ。


相手は猫だけれども、素直に惜しみなく与えたり、与えられたりするこの愛情が随分と自分を救ってくれ、自信をくれるものだ。
人間相手だとこれだけ素直でいることが難しくなるんだよなあ。それは言葉があるせいかしら。


猫を飼い始めた時、職場の先輩に言われた。
「今よりもっと強くなれるよ」
その時は「守らなければならない存在ができるから強くなるってことだろうか」と思った。


今、強くなっているのかどうかはわからないけれど、もしも強くなっているのだとしたら、それは猫と「愛してる」を惜しみなく注ぎ合っているせいだろう。
「愛してる」の響きだけで、きっと強くなってしまってるんだろう。